起き上がる力 牧師   澤﨑弘美

ヨハネによる福音書5章1~9節

「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」 (5章8節)


 エルサレムの北に縦100メートル、横70メートルぐらいの人工の池が作られた。住民のために山の水が水路を通ってここに貯められた。土木技術は高い。その池はベテスタの池と呼ばれた。その意味は恵みの家というもの。この池は体の不自由な人の溜まり場となっていた。多くの人々は彼らをできるだけ見ないようにして通りすぎたが、施しをする人もいた。神殿にやって来る人々のお情で何とか生きていた。

 

 その中に38年もの間、病気で苦しんでいる人がいた。生まれながらとは書いていない。幼児期のときの病気が考えられる。現代では薬があるけれども当時ならば寝たきりになる不治の病。肉体的問題だけではない。友人や家族も離れていってしまい、社会から無用物扱いとなっていた。主イエスは人々の近づきたがらない彼のところにやってきた。ここには従来のユダヤ教とキリストの恵みの違いが隠された形で示されている。

 

 ヨハネにおいて何度か水に関する話が出てくる。2章の水がぶどう酒になる話。4章のサマリヤの井戸水、そしてここのベテスダの水はすべてユダヤ教を暗示している。ここのテーマはユダヤ教では人を救うにあたって、さあ池まで来て、その中に入れば救われるということ。ユダヤ教は律法を守れば救われるという。しかし病人は自分の力で池に入ることはできない。自分の力で救いを勝ち取ろうとする宗教がある。それは修行(断食、不眠、体の鍛錬)によって特別な力を得ること。

 

 主イエスは律法を守れば救われるとはいわない。主イエスは救いを持って、天から私どものところ来られた。

 

 38年もの間そこで過ごしている男の人に、「良くなりたいか」と声をかけられた。男は自分の置かれている苦しい現状を訴えた。彼は率直に主イエスに直りたいと言わない。彼の口から出てきた言葉はうらみ、つらみといった愚痴。これが彼の置かれた社会的状況を示す。ベテスダを取り巻く状況は病人たちがお互いに助け合っている社会ではない。「彼らは水の動くのを待っていた」。それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。自分だけが元気になれば良いというすさまじい生存競争の場であった。ベテスダの池では一般社会以上の競争。男の人は主イエスに対しても「治りたい。」と素直にいえない。主イエスは彼の心のゆがみを非難していない。重要なことは癒すためであり、失われた本来の人間らしさの回復のためだった。主イエスはこの男に対して起きなさいと語られた。その呼びかけは新しく生きなさいとの言葉。

 

 教会のメッセージは単にこの世の成功者になるためではない。打ちひしがれ絶望の中にある人に対して起きなさい、希望をもちなさい。わたしたちは見捨てられていない。一人で生きているのではない。キリストと共に生きることを告げる。

 

                                     2023年7月 月報掲載 通巻218号