父の名によって来た方      牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書5章43~47節

「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない…。」

                                                                                                                                            (5章43節)


  イスラエルの民は父なる神から遣わされた主イエスを受け容れなかった。その時、主イエスは誇りを傷つけられて怒ったということではない。主イエスは人からの賞賛や誉れを必要とされない。

 反対にイスラエルの民は神からの誉れでなく、人の誉れを求めるのに汲々としていた。主イエスを賞賛しないで自分たちの仲間を褒めあっている。仲間を褒めれば自分も誉められるという構図となっている。教会における全ての集会は、神が褒め称えられ崇められることを願う。

 

  人から崇められることを願う問題点は何か。それは44節に現れている。ここで主イエスから批判されているのは当時の宗教指導者たち。彼らの心の願いは宴会で上座につくこと。人々のいる広場で挨拶を受けること。人から誉められること。それは人々から名声を求めることに変わっていきやすい。名声を得ることが人生の最終目標となり、それは自己本位な欲望に変わりやすい。そのために他人を利用することや、蹴落とすことすら行ってしまう。ややもすると限りない競争心だけが大きくなる。そして優越感とその反対の劣等感に、いつもつきまとわられる。

 わたしの道を歩むという思いは人との競争をしている間は出てこない。神の存在に目を開かされて初めて自分は自分という思いになる。

 

  主イエスは指導者たちの問題点は、神を愛する愛がないと指摘している。彼らは神への愛を持っていない。宗教家は全員が神への愛に生き、神からの賞賛を求めているのではない。人からの賞賛や誉れを求めている。なぜそうなったか。たとえば旧約には食物規定がある。イスラエルの民はあらゆる食べ物に対して清いものと、穢れているものというように区分けをした。食物も彼らに取って自分たちの権威を高める道具にしてしまった。礼拝を守ることは喜びの表現であった。それを指導者たちは安息日は何キロ以上歩き回ってはいけない、服装はこうでなければならないというように細かく規定していった。あらゆる宗教行事を自分たちの権威の表現とした。モーセは戒めとは神を愛し人を愛することと受けとめた。しかし主イエス時代の宗教指導者たちは神の愛に応答することでなく、自分たちの宗教形態を築き上げていった。

 神はキリストをこの世に遣わされた。それはキリストを受け容れてほしいという神の願いそのもの。キリストを受け容れるとは心に迎えること。キリストの心を深く理解しキリストの心を自分の心とすること。それをイスラエルの民は拒絶した。キリストは本を書いたのではない。実際に手本を示された。キリストのように人の誉れでなく、神の誉れを求めるものでありたい。

                                     2023年11月 月報掲載 通巻222号