あなたがたを遣わす    牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書20章19~23節

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

                                           (20章21節)


 

 主イエスが十字架にかかられたとき、弟子たちはその場から逃げて散り散りになった。週の初めの夕方とは日曜日。弟子たちは一人でいるのが心細く集まってきた。自分たちも捕まらないか心配でありユダヤ当局をおそれていた。誰かが来ないようにしっかりと戸には鍵をかけた。弟子たちの心を支配しているのは何で逃げてしまったのかという後悔。捕まるのではないかという心配。これから先どうしたらいいのだろうかという不安。主イエスを裏切った悲しみ。イエスが十字架につけられたという絶望。自らの信仰態度の不徹底さを感じている。複雑な諸々の思いが弟子たちの心を捉え、口数も少なくなっている。これらは別離の体験、自分の失敗の体験に似ている。

 

 そこに主イエスが現れた。最初の語りかけは「シャローム」。訳すならば「平安があるように」。あえて日本語の挨拶にたとえるならば、相手をいたわるような「お疲れ様」か。心配しなくてもいいというニュアンスが漂う。イエスを見捨てて逃げていった弟子たちを赦している。自分に対してのふがいなさに打ち砕かれた弟子たちを受け入れてくれている。弟子たちの中に喜びが生まれてきた。こんなにだらしない自分にも主イエスは愛想尽かしをされない。「平安あれ」と励ましてくださる主イエスに出会った喜び。

 

 その後、主イエスは「あなたがたを遣わす」といわれた。弟子たちの使命は平安と喜びを語ること。遂行する力は聖霊が与えてくださること。誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。これは裁判官になることではない。聖書でいう罪とは盗みを働くというように法律を犯すことではなく、的外れな生き方をすること。生きる目的を見いだせずにいること。聖書のいう生き方とは神を愛し、人を大切に思うこと。人を受け入れることが罪の赦し。このことを主イエスがお手本を示してくれた。主イエスはユダヤの指導者たちの妬みや憎しみにあって十字架につけられた。それでも十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた。主イエスが赦されたように弟子たちも赦しなさいと勧めている。主イエスが弟子たちを遣わされるということは、互いに赦しあうことによって生きるため。弟子たちを世に遣わされるにあたり、息を吹きかけられた。この不思議な表現は私どもに天地創造の出来事を思い出させるため。天地創造の神は最初の人を土の塵から造られたとき、いのちの息を彼に吹き込まれたことと対になっている。甦られた主イエスは今や新しい人々を創造される。

 

 聖書は主イエスが単に息を吹き返されたと語っていない。新しい命に生きるものとされた。

 

 十字架にかかられたことによって、消滅したと思われた主イエスの働きの出発点となった。これは否定できない歴史の事実。閉ざされた部屋に主イエスがやってこられたように、希望を見いだせず、打ちひしがれている人のところにキリストはやって来られる。時を越え、場所を超えてキリストはやって来られる。

 

                                       2023年4月 月報掲載 通巻215号