十字架を背負って   牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書19章13~24節

「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。」

(19章16節)


ここで目に付くのが冒頭のピラトという人の名。彼の名は使徒信条にも出てくる。信者でもないピラトの名前がなぜ出てくるのか。彼はローマからエルサレムに遣わされた全権大使。イスラエルでの絶対的権力者。聖書はピラトによって主イエスの十字架刑の判決が下されたことを明らかにしている。判決の日、場所、原告、被告、裁判官の名等が明記されている。その裁判は冤罪だったことも明記されている(4節)。それなのになぜ十字架刑を言い渡したのか。それは祭司長や群衆の声を恐れたから(12節)。彼らがピラトをローマの皇帝に訴えたら、罷免どころか反逆罪に問われ自分の命が危うかったから。彼が何年間イスラエルの担当の総督であったかは歴史の資料をひも解けば出てくる。いにしえの教会はピラトの名前を挙げることによって主イエスの存在や救いの出来事が歴史的事件であることを重視している。頭の中で考え出された思想ではないこと、事実に基づいている重要性を告げている。

 

 福音書を読んで大事なことはイエスがいかなることを語られたか。その意味は何か。その言葉が現代にいかに適用できるかが重要となる。ところが重要な裁判の場所でイエスは一言も弁明していない。ここで重要なのは主イエスの態度であり、行動。人間の言葉は当てにならないことが多々ある。人を裏切る言葉も多い。それに対して行動や振る舞いはその人の本心が現れやすい。主イエスの行動はひたすら十字架をめざしている。人々は殺せ、殺せ、十字架につけろと狂ったように叫んでいる。(マタイ受難曲)。ピラトは爆発するその声をとめることができずに、押し流された。それによってイエスはされこうべと呼ばれた刑場に向かって、十字架を背負って進んでいかれた。冤罪だと叫んでいない、死にたくないと泣き言を言っていない、周りを見回して誰か助けてくれと呼びかけてもない。黙々と、一人で十字架を担われた。このお姿は主イエスの決意の現われ。すべての人を救うため。その中には裏切ったユダ、イエスを妬み憎んだユダヤ当局、イエスを罵った群衆の罪、汚れをも一手に引き受け背負っていかれた。そのことによってすべての人の罪の赦しを完成された。救いの業は誰かとの協力によって行われたのではない。ただ主イエスのみが担うことの出来ることだった。十字架はもともとローマ帝国がローマに歯向かう者への、見せしめのためのむごたらしい処刑方法だった。その十字架がキリスト教のシンボルとなり、教会の建物の上に掲げられるようになった。キリスト教信仰は私どものために御自分の命までささげられた主イエスを信じること。主イエスに守られ導かれ、日々の歩みを感謝と喜びをもって主イエスと共に歩むこと。

                                      2023年3月 月報掲載 通巻214号