聞いて納得する    牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書4章39~42節

「…自分で聞いてこの方が本当に世の救い主であると分かったからです。」  (4章42節)


 主イエスとサマリアの女性との会話は主イエスがのどの渇きを覚えて「水を飲ませてください」から始まった。話は次第に心の渇きに変わっていく。心の渇きを満たすべく永遠の命の水の話に展開する。

 

 女は素晴らしい男の人との出会いが幸せをもたらすと考えていた。現実はそうではなかった。5回も結婚と離婚を繰り返す生活となった。ヨハネ4章は、人は何によって幸いを得るのか。わたしたちの魂は何を持って潤いを得るのかを考えさせられる。夫ではない、妻でもない、子供でもない、仕事でもない、趣味でもない。神を敬う礼拝と聖書は語る。主イエスは彼女がしとやかかどうかでなく、美人かどうかでなく、人々からは、うさん臭く見られていても熱心に懇々と語りかけられた。弟子達はこの女性にも神の恵みが臨んでいるとは考えていない。主イエスのみが神の恵みを語られた。弟子達にとっては何の関心も持たないけれど主イエスはそのように考えない。このような女性にこそ神の慈しみが向けられる貴い存在。その結果、彼女にも心に潤いを与えられた。今までとは違う歩みを始めていった。彼女は町に戻っていった。しかし以前の喜びのない生活にではない。キリストを語るために出向いた。

 

 29節の証言の内容は証しとしては物足りなく不充分に思われる。42節の証しと比べものにならない。もっと確信を持って語れなかったか。ここは彼女の賢さがある。余り自分が偉そうに語ると、人々が反発することを恐れた。今まで、決して人前に出て意見をいうことのなかった彼女が人々の前に立つだけでも十分にアッピールするものがある。この時代、女性が率先して指導する社会ではない。自分の立場をわきまえた控えめな発言が男性を動かす。キリストに出会った喜びは人々に語るメッセージを持つようになる。どんなに消極的な人であっても語るものが自分の中から湧き上がってくる。彼女の証しは、控えめではあったけれども、不思議な力を持っていた。話術のテクニックではない。彼女の心がこもっている。29節の「私のしたこと…」という言葉は自分の弱さをさらけ出している。いままでの自分は人様の模範となる生き方、生活ではなかった。しかしそのようなわたしをもキリストは神の赦しの中に迎え入れてくださる。その思いが表れている。雄弁さでなく、率直さ、弱さが出ているところに真実の証しがある。

 

 町の人々は女の言葉によって主イエスのところにやってきた。そして信じるようになる。人々は最初、主イエスを見にやってきた。次に主イエスの話を聞いて信じた。それは信仰の経過を示している。最後には滞在を願った。滞在とは離れないこと、住み付くこと、生活の中に入り込むこと。信仰とはキリストが私たちの中に生涯に渡って住みつくこと。

 

                                      2023年5月 月報掲載 通巻216号