キリストと出会う時     牧師 澤﨑弘美

 ヨハネによる福音書7章1~13節

 「…わたしはこの祭りには登って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」  (7章8節)

 


 今日の箇所にはイエスをめぐるいろいろな人々が登場する。1節にユダヤ人たち。ユダヤ人と称されている人々はたいへん悪い意味で使われている。彼らはいわゆるユダヤ民族を意味しない。一般の市民ではない。ユダヤの指導者たち。それゆえにユダヤ人という訳はふさわしくない。7節に「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる」。とあるが、ここでいう世とは世界中のすべての人を意味しない。ユダヤを支配している人々のこと。3節はイエスの兄弟たち、12節は群衆たち。普段、彼らは別々の世界に住んでいる。共通点は彼ら全員がイエスを誤解している。

 

 まずユダヤ人たちであるが、彼らは獲物にとびかかるようにイエスを殺そうとねらっている。彼らに対して主イエスは7節で、「彼らの業は悪い」ときっぱりと指摘している。

 

 ユダヤの宗教指導者たちは悪い人とか、泥棒しているということではない。悪いという漢字は心が上から強い力で押し付けられている状態を示す。心が押し潰されて自由でなく晴れ晴れしていない様子が悪いという意味の語源。ユダヤ当局は人々に対して戒律の押し付けをしていた。やれこの食物は食べてはいけないとか言っていたが、貧しい人々はそんな規定を守ることはできなかった。病人やハンディのある人は神殿に入れてもらえなかった。女性も神殿の中で入る場所が限定されていた。主イエスは本来の信仰は神様を喜ぶことにあると指摘され、そこからユダヤ当局のあり方に対してあなたがたの信仰理解は間違っていると発言していた。それが当局の憎しみや怒りを買うことになった。

 

 主イエスは「わたしの時はまだ来ていないと言われた」。ここでいう時とは1日は24時間というように時を刻むという意味ではない。カイロスという言葉。それは神が準備してくださる時のこと。キリストはいい人だ、いやそうではないという判断はまだイエスを救い主として信じるといった主体的な信仰の告白になっていない。彼らに共通しているのは、ユダヤ当局を気兼ねしているところ。お前は今何といったと尋問されると口ごもってしまうか、いや別にと口を閉ざしてしまうしかない。結局、この時点では誰も真実にキリストには出会っていなかった。キリストのときはまだ来ていなかった。この後、主イエスは十字架にかかられ、すべての人のために、とりなしの祈りをささげてくださった。それがキリストの時だった。十字架にかかられた後に、イエスの兄弟たちも、ユダヤ教の人も、一般の人々もキリストを信じる道が開かれた。それは、私どももキリストに出会う時が与えられているということ。キリストを信じる時が備えられたということ。今のこの時こそ、キリストと出会う大事な時である。

 

                                      2024年6月 月報掲載 通巻229号