キリストをいただく   牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書6章41~59節

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」 (6章51節)

 


 6章のテーマは命のパン。キリストは信仰をパンを食べることに譬えられた。これが音楽の主旋律のように流れている。これは今まで誰もいわなかったこと。彼らはこの譬えにあっけに取られた。食べることは重要なこと。災害にあった時、まず水の確保と食料の確保から始まる。食糧をいかに供給するか重要なこと。ローマ帝国は食糧を供給できなくなったときから崩壊が始まった。その人の健康度は食事の内容によっても大きく左右される。主イエスの言葉は人々の意表を突く。この譬えをはぐらかしてはならない。ユダヤ当局は、「お前は自分の肉を食べさせ、自分の血を飲ませようとでも言うのか」と話をすりかえイエスをバカにしている。

 

 主イエスは話がずれないように、彼らの言葉をそのまま取り上げられた。相手の土俵の中に入られた。「はっきり言っておく」という言葉の繰り返しは、逃げないでわたしと対面しなさいということ。主イエスは、「人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたがたのうちに命はない」と語る。この表現は主イエスの独自性あふれる強い響きがある。キリストを信じ受け入れるとは、キリストを食べてしまうようなこととしかいいようがない。頭の中でキリストのことを考えるだけでなく、知識以上に感情であるとか、情熱といったものも含んでいる。信仰とは神様がいるかどうか考えることではない。神様はいると思うだけならば、頭だけの世界。観念の上での世界。信仰の世界とはいいがたい。

 

 食事をしなかったならば私どもはやせ衰え干からびていく。キリストによって養われないならば、私共の信仰もやせ衰え干からびていく。体の健康のことにお金をかけ、気をつけるぐらいに自分の心の健康にも気をつけたい。精神のこと、魂への配慮が求められる。ある人曰く。いい音楽を聴かなかったり、これといった本を読んでいないようなときには生活が生き生きとしてこない。人との会話も内容が乏しい。反対に何かに感動しているときには、そのことを話題にしたりして有意義な話もできる。感動しているならば、その人は自らの魂を養っていることになる。その人の心がどこにあるか、何に関心を寄せているか、おのずから顔に表れてくる。反対に何の感動もなく過ごしている人は、すぐにその魂は干からび始める。のどが乾いてから水を飲むのでは遅い。「わたしは命のパンである」とのキリストの語りかけは宗教的な語りかけ。あなたの魂は生きているかという語りかけ。神からのパンは私共の魂を育む。神は私共の魂を養われるためにキリストを遣わされた。

 

 感謝して、日々キリストをいただくものでありたい。キリストをいただくことは自分の中にキリストを迎えること。私どもの中にキリストが入ってくださることによって私共は養われていく。

             

                                     2024年5月 月報掲載 通巻228号