ヨハネによる福音書7章25~31節
「イエスは大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、またどこの出身かも知っている』…。」
(7章28節)
人々は主イエスに向かって、どこの出身か、誰の子か、学歴等を尋ねた。上っ面な事柄を上から目線で尋ねている。それでは主イエスのハートに触れることはできない。芥川龍之介は短編の名手。彼の作品の「西方の人」というのがある。彼は初めキリスト教文化、キリシタンものに関心を持った、そこから始まって次第にキリスト教に関心が進んだ。さらにそこに留まらないで最後にはキリスト自身に関心が集中していった。それゆえに彼の聖書は赤線がびっしり引かれている。芥川の関心の深まりが重要。
主イエスの前に立つことは、自分自身も「わたしは誰々です」と名乗りをあげなければならない。自分を振り返ることでもある。わたしは何を生きがいにしているのか。わたしは何を大事にし、どこに向かって生きているのか考えなくてはいけない。キリストに照らされた自分に向き合わなければならない。そのとき、主イエスがナザレの出身だとか、大工のヨセフとマリアから生まれたとか。どんな学校を出ているとかは大事なことではなくなってくる。それよりも神のみ子なるイエスが、どうしてこの世においでくださったかが重要になる。主イエスに向きあうならば、自分がいかなるものであるか、何にしっかりと目を向けなければならないかを知らされる。にもかかわらず、主イエスに対してお前は誰だとか、大工の子ではないかとか、有名な先生について学問していないではないかというならば、私どもは大切なことを見失ってしまう。主イエスの心に近づけない。せっかくキリストが近づいてきてくださったのだから、キリストから離れないようにしたい。その恵みに与り、日々の歩みを進めるものでありたい。
信仰者は人々の「教会では何をするのか」という質問に答えていかねばならない。町内会役員をされた人の証。町内会役員会を日曜日に開きたいとの申し出に対して、教会に行くので出られない、他の曜日にしてくれと頼み込んだ。相手は教会に何しに行くのか。そんなに教会に行かなくてはいけないのかと尋ねてきた。そこで1週間に1度、自分自身への振り返りのために行く。あなたはいつ自分を振り返る時を持っているかと尋ねた。その逆質問に町内会の人はびっくりしていた。そうした会話の後からは、日曜日をはずしてくれるようになった。教会に何しに行くのかという問いに応えるのは意外に難しい。急に尋ねられると、こちらがしどろもどろになる。建物の説明をしても始まらない。直接イエスに向かっていかねばならない。どのように向き合えばよいのか。これはヨハネを初め、多くの信仰者が考えてきたところである。現在においては私どもへの宿題になっているところでもある。
2024年8月 月報掲載 通巻231号