生きた水が流れ出る     牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書7章37~44節

 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

                                           (7章38節)


 

 仮庵の祭はユダヤの3大祭の一つ。規模は一番大きい。主イエスもエルサレムにおり、これ以後、郷里のナザレには帰っていない。イエスの中に時が来ている認識が生まれている。広場等に小枝や葉を用いて簡単な小屋を作った。そのことによってモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野での生活をした先祖の歩みを思い浮かべた。

 

 イエスのメッセージは神殿の庭。ここでイエスは生ける水について話された。祭の期間中、シロアムの池から水を汲んできて神殿の祭壇に注ぎかけた。祭壇は岩を象徴する。一行が荒野にて水がなくなったとき、モーセが岩をたたいて水を出したことを思い出した。これは神殿が世界の中心という考え。それに対してイエスは神殿ではなく私が命の水と宣言。私から命の水が流れ出る。神殿は神の恵みを十分に表わさない。病気の人やハンディのある人は神殿に入れない。女性や外国人は入れる場所が制限されている。それに対して主イエスはすべての人を招かれた。子ども、女性、貧しい人々を優遇。神殿は建物であるので動かない。主イエスは人々のところに出かけられた。神の恵みは神殿ではなくイエスの人となり、振る舞いと人格において示された。

 

 イエスを拒否した人々がいる。それ以上に逮捕しようとした。反対に「メシアだ」という人々もいた。メシアだという人はメシアではないという人よりはその判断は正しい。しかしそこに留まってイエスに近づいていかないならば、結局は評論家に留まる。主イエスは、「私のところに来て飲みなさい」と言われた。主イエスのところまで行き、渇きを潤すために生ける水をいただこう。イエスのところに行くならば生きる目的や生きがいが与えられる。そして湧き出る水が小川となり大きな川となっていくように、イエスを受け入れた人からは生きた水が流れていくようになる。その人の存在は人々を潤すにいたる。それは評論家の立場からは出てこない。キリストともに歩みだすことによって出てくるものである。

 

 主イエスが私共に与えようとされるのは、コップ一杯ぐらいの水ではない。乾ききった大地を潤すほどの大量の水が用意されている。その水をいかに用いていくのか。与えられた水が、そのままであったならば、ため池の水となり新鮮さを失う。流れ出て始めて新鮮さを保つことができる。命の水を得た人の周りにも、知らないうちに人々が集まってくる。信仰生活を続けていくことは私共の周りに人々が集まってくることである。また、教会に人々が吸い寄せられるように集められる。そのことを願っていこう。

                                    2024年9月 月報掲載 通巻232号