神からの教え   牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書7章14~18節

 

「イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなくわたしをお遣わしになったかたの教えでる。』」

                                          (7章16節)


 今日の箇所には教えという言葉が繰り返し出てくる。キリスト教とはどういう教えですかと尋ねられて、何と答えたらいいでしょうか。全世界の25%の人々が信じるキリスト教。2000年の間、世界の各地においてしっかりと根を張り、政治、経済、教育、文化に影響を及ぼしているキリスト教とは一体何か。牧師は新来者への説明に苦労する。永井春子先生の「キリスト教教理」という本は、「キリスト教とは何ですか。」ではじまる。その答え「キリスト教とはキリストです」となっている。人と神との橋渡しをされたのがキリスト。それがキリスト教とはキリストですという説明になった。これは覚えておきたい説明。「イエス様が一番」という讃美歌がある。30年ほど前のフォークソングの雰囲気の讃美歌。キリスト教を説明していくのにキリストから始めるのが分かり易い。

 

主イエスが人々の間で評判になったのでそれを妬む人々も出てきた。ユダヤの指導者たちは主イエスの存在を気にしつつ無視していた。メシアはエルサレムからそれもユダヤの名門から現れると考えていた。彼らは主イエスがナザレという小さな田舎の出身であることや有名な先生に学んでいないと批評した。教えの内容以前に家柄や肩書きで人を見ていた。大工の子であるとさげすんでいた。主イエスは人々が異邦人のガリラヤと蔑んでいた故郷をこよなく愛された。小さな田舎出身であることを軽んじるのは間違っている。キリストがユダヤの小さな村で生まれたこと。家畜小屋で生まれたことに意義がある。そのことを通して、神の御子がこの世においで下さったこと。そこまでへりくだって来られたことが明らかにされていった。ユダヤの指導者たちの律法の知識は高かった。しかし、律法についての説明だけでは意味がない。キリストは聖書の学問的説明をされない。知識のひけらかしでもない。教えるとは訓練する、指導する、手ほどきすること。主イエスが会堂で聖書を朗読した時、そこが神の国の現実となった。神の愛が目の前に人に注がれていることを語られた。ここには「神から遣わされた」という言葉が出てくる。今日の所で、私の教えは神からの教えであることを強調された。神からの教えを強調する意味は何か。自分の栄光を求めていないから。世の中にはさまざまな教えが飛び交っている。自分を押し売り、自分の名誉を求めるものは本物ではない。キリストは自らの誉れを求めない。神の誉れ、神の栄光が現れることを願われた。主イエスと共に神の御心に生きようと人々を招かれた。人は漠然と生きているのではない。生きる目的や喜びを知らなくてはむなしい。聖書は神が他の人と代わることのできない、かけがいのない人間、一人の人を大事にし、その人を追い求め続けられることを語っている。

 

                                     2024年7月 月報掲載 通巻230号